久しぶりに恩師の卒寿祝いに佐賀へ行った。
田舎の高校時代は進学校とはいえ、まだ勉強にガツガツしない雰囲気の授業も多く、大人に向かう我々生徒の人生の糧になったと感謝している。
先生たちの中にもユニークな方々がおられ、今なお思い出すのは英語のN先生、7月のパリ祭前には「ラ・マルセーユ」を教室で練習し、隣の数学教師にやんわりとクレームをつけられることもあった。
元お公家サマの国語教師は自然主義文学の授業で藤村、花袋などの失恋の話の数々を講義されるなどリベラルな雰囲気は後々生徒達の人間形成に大いに役だったと有難く思っている。そのオ公家サマの先生はのちに春日大社の宮司になられた方である。
そんなのんびり育った佐賀を離れてベルトコンベアーで製品がどんどん出来上がってくる、“speed is the best“ の会社人間に馴れるのにしばらく時間が必要だったが、数年経てばそれが当たり前のセッカチ都会人に変身、たまに帰る故郷で急がずあせらず歩くゆとりの生活が懐かしく、定年が近づくにつれ郷愁の念が強くなり私の心を佐賀へ向かわせた。
定年退職後、旅する時間もできたので佐賀でのスローな生活を期待していたが、すでに佐賀も軽自動車数は日本一の車社会、都会並みのスピードが日常化していたが、郊外へ出れば「ゆとり」は昔のまま、のんびり名所旧跡巡りができるのはありがたかった。潮騒を聞きながら日本一を誇る玄界灘の「虹の松原」5kmに及ぶ松林の中をゆっくり歩きながら来し方を振り返ったり、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の「葉隠れ」を書き記した(口述して後世に遺した)山本常朝の庵跡、日本には神田と長崎の3ヵ所しかない多久の孔子廟、「邪馬台国」ではないか、と話題になった「吉野ケ里歴史公園」の高床家屋を見上げながら弥生時代をしのんだり、佐賀は古くから日本の歴史にかかわりあってきた土地であった。それは明治になっても続き、維新前後には政治、科学分野では薩長に先駆けて藩主鍋島直正公が手掛けた三重津造船所(世界遺産)、お台場にも備えられたアームストロング砲など日本の近代化を急速に発展させた功績は佐賀人の勤勉さと伝統の力であろう。直正公に続いて江藤新平、大隈重信、副島種臣など政治・科学・産業分野や北海道開発など日本の近代化を加速させた佐賀の7賢人などの活躍は目覚ましいものであった。ゆっくり往時に想像を膨らませながらそれらの足跡を歩いて回り、疲れたら体をほぐしに佐賀市の奥座敷、人口もまばらな古湯温泉で体を伸ばす。此処に斎藤茂吉が湯治で逗留したり、笹沢左保が13年あまり滞在して執筆活動をした静かな温泉の町である。最近は他県から移住された方々が起業された「そば街道」などもあり、佐賀平野の暑い夏を避けて訪れる人も多くなった。
今は持病で田舎に永住とはいかぬ私ではあるが、2000年から続いたマレーシアでの「シーズンステイ」を佐賀でも出来ればと願っており、「田舎暮らし」に関心を持つ仲間にも歴史の香り高い佐賀へ行こうと誘っている。大都市福岡までバスで1時間、列車では40分、東京の郊外とそう変わらない。現在多くの地方都市による移住促進活動がブームとなっているが、佐賀もそれらの街と何ら遜色ない。物価も安く(食料品全国46番目、住居費41番目)、新鮮な野菜や玄界灘と有明海の異なる海で獲れる多種の魚介類や良質の有明海苔、佐賀牛など食べ物も豊かな佐賀は高齢者にも満足できると思う。大きな地震にも見舞われたことのない佐賀の魅力をもっと多くの人に知ってほしいと願っている。
(写真の吉野ケ里歴史公園、虹の松原は佐賀県観光連盟様にご提供頂きました)
(登録ロングステイアドバイザー・古川作二)